東西教会の分裂(大シスマ)はいつ起きたか

東西教会の分裂(大シスマ)が1054年にコンスタンディヌーポリで起こったローマとコンスタンディヌーポリの教会の相互破門事件がきっかけとなって起こったという話は一般的には知られていますが、まともな歴史学者でこの説を支持する人は必ずしも多くはないです。

 

何故ならば、この相互破門と呼ばれている事件は現実的な実効性が疑われているからです。

元々、ローマの総主教座(いわゆるローマ教皇座)からコンスタンディヌーポリへの使節団がコンスタンディヌーポリ総主教の受け入れ待遇が気に入らないという話から始まった事件ですが、そもそも使節団でしかない彼らにコンスタンディヌーポリ総主教へ破門宣告をする権限があったのかどうかが第一の問題。第二の問題は仮にその権限があるとしても、権限の源であるローマ教皇座はこの時レオ9世が既に永眠しており空位の状態になっていたこと。第三にコンスタンディヌーポリ総主教ミハイル1世がこの時に破門したのはローマの使節団であってローマ教皇ではないこと…と挙げていけばきりが無いのですが、要するによく世界史の教科書に書かれているような「ローマ教皇コンスタンディヌーポリ総主教が互いを破門しあった」というような単純な構図の事件は存在していなかったという事です。

 

では何時なのかと言われると・・・諸説紛々ですね。

 

代表例では1204年に起きた第四次十字軍などを分裂の切れ目にする人もいます。

十字軍は聖地イエルサリム(エルサレム)の回復を目指して西ヨーロッパで起きた軍事行動ですが、第四次十字軍はイエルサリムではなくコンスタンディヌーポリを攻撃して陥落させてしまいました。

この時を境にコンスタンディヌーポリ総主教を初めとする一般的に正教会に属する独立教会の首座主教たちはローマ教皇に属する西方教会を、もはや同じ信仰を保持する教会と認めず、奉神礼におけるローマ教皇の記憶を停止してしまいました。記憶の停止自体は今でも正教会の中で時々起こる事ですが、結果としてこれ以降、ローマ教皇の記憶を復元することはないまま現在に至っています。

しかし、既に述べた通り、記憶の停止自体は今でも起こることであり、これが決定的な教会分裂の境目とは言えないという意見も存在するわけです。

 

結局、幾つかの事件があってそれぞれを節目にする説が色々ある訳ですが、それぞれにその説の根拠付けがあって一概にどれが正しいともいえない、という感じでしょうか。

分かっているのは最終的には分裂した、ということだけだったりするわけです。

 

日本の歴史上の例で言うと、鎌倉幕府の始まりが1192年で江戸幕府の始まりが1603年で、と覚えている人は多いと思いますが、日本史の学会では実は諸説紛々で定まらないのと似ています。

 

上記の年号は源頼朝徳川家康がそれぞれ征夷大将軍に任ぜられた年なわけですが、統治国家としての幕府、として見た場合、何を節目と見るかは色々な観点があるわけです。

 

分かっているのは最終的には幕府の支配が固まっていった過程があるということだけ。

 

歴史については一般的には簡単に考えられていることも実は一概に言えないことが多い、という一例と言えるかもしれません。